BCのセミリタイアまでの道のり

最近は米国株、ETFなどを不定期にレポートしてます。皆さんのお役に立てば嬉しいです。

ピンチをチャンスに変えるを自分なりに考えてみました

こんにちは。BCです。

さて、お盆のお陰でゆっくり本が読めていて嬉しいです。

その中の一節にありました「脅威ではなくて好機と捉える」ということが響いたのです。

そんなよく言うことやんって思うのですが、いざ自分ごととなった時には、

そんな余裕を持った思考ができているとは言えないですね。

こうした言葉を日常の小さな出来事に落とし込みたいと言うのが結論ですが、

始めてみます。

株価の下落を好機として捉えるとどうなるか?

これはよく言われることですよね。

バーゲンセールになってる!と思えば全てがお買い得に見えてきます。

これは注意しておきたいのがその後の株価の戻しと高値更新が見据えられているかどうか、

また適切なリスク管理ができているかと言うのができている上での発言ということですね。

 

そして相場とは綾があるものですから、この短期的な下落こそが好機ということです。

 

ただ、リーマンショックのような、絶望が年単位で繰り広げられている中でそう思えるかどうかは、

見通しやリスクコントロールとかを通り越した、もはや信念のレベルになりそうです。

そんな超人的な所業を、個人投資家はやっていくことを前提として投資をしていくのだから本当にすごいものですね。

 

実は前髪の後退こそが最大の脅威と感じています

投資でできたことを健康でもしてみようと思った時に、一番の脅威は前髪の後退でした。

「おでこが後退しているのではない、私が前進しているのだ」

とはソフトバンクの孫さんの有名なセリフ?ですが、一般人のBCにはとてもそんな自信もなく、ただただ前髪が後退しているだけなのです。

 

その恐怖の根源は、老化に対してのものだなという感じがしています。

老いとは避けられないもので、今より若くなることはありえません。

ただ、こうした老いに対して何かのチャンスと捉えてみたいのです。

 

それはやはり、精神的な成熟ということでしょうか。

これは、人間をココロとカラダに分けて考えた時の発想です。

 

カラダの老いは避けられませんが、ココロは捉え方次第でいくらでも若く、

いや、成熟していけます。

 

この精神の成熟とはなかなか一晩には成らないものですが、カラダの老いに対しての恐怖は精神を成熟させるには十分な養分になりそうに思います。

 

カラダの老いとはつまり、快楽から離れるということを意味するように思います。

その快楽から離れること受け入れることこそがココロの成熟に繋がるとも言えそうです。

 

人に嫌われることで自分を確立する

人に嫌われるというのもある意味では脅威に感じます。

ただ、全ての人に良い顔はできないものですね。

 

例えば会社に良い顔をし続けていては、投資をすることや健康の維持、

家族の幸せを作り上げることはできません。

 

つまり、時間は限られていて仕事に費やす時間が長いほどに自分のための時間は削られてしまうのです。

従いまして、時には上司や同僚に嫌われてでも自分の生活をとるということ、

そういう一つの行動が自分を確立していくことに繋がると言えます。

 

別に会社じゃなくても構わないです。

友達であっても、およそ人間関係であればうまく行かないこともあろうかと思います。

そうした時に、自分の道を進むのであれば嫌われることも恐れないということですね。

 

間違っても、自分にとってとるに足らないことでも頑なに闘えという訳ではなくて、

自分の考えてしたことで相手が嫌な顔をしてしまう時には、

距離を少し離して自分の信じることをしていけばいいという程度のことですが。

 

死の恐怖から生きる喜びを見出す

最後の例えはこれしかないですね。

いづれ限りある命であることは明白です。

ただ、それだからと言ってこの与えられた命を空虚にしてしまうことはないのです。

むしろ、限りあるからこそ今日がより大切に思えるとなるでしょう。

 

今日過ごした時間が大切な時間たり得たか、

それは自分が社会に老いて今どんな役割でいるかは関係なく、

全ての人がもつ課題と言っていいでしょう。

 

やっぱり愛する人に愛をしっかりつと伝えていくことですね。

そして「袖擦り合うのも多生の縁」と言うのは、

決して身近な人に対してだけではなく出会う人に対してどれだけ真摯で入れるかが、

問われているのだと思います。

 

そう言いながらも今日も子供にガチギレしている私ですが。。アホですな。

 

ピンチをチャンスに変える

実際にピンチの時とは精神的にも追い込まれてるのでそう簡単にはチャンスだなんて思えません。

だから無理にとは言えないですし、むしろまずはそのピンチを受け入れてしまうことの方が先でしょう。

 

受け入れるとは、いわゆる最悪を想定するだとか、命まで取られる訳じゃないということですね。

たとえ髪がなくなっても命まで取られる訳じゃあありません。。

 

たとえここで命を落としても死なない人はいないのですから。

そしてこれまで生み出した喜びがなくなることもありません。

 

そして、そこからもう一踏ん張りして、これをチャンスに変えてみたいです。

だからこそ、今の髪の毛を大事にするのか、

どこかにブル相場があると探すのか、

とにかく今目の前の時間を味わうのか、

なんでも良いのでしょうが、学びにして自分を変えてしまおうということですね。

 

なかなか変われないのが人間ですから、今あるピンチこそが自分を変えてくれるきっかけとなるのやもしれません。

 

さて、それではみなさま素敵な日々を。

【株式投資】ワクワクよりも淡々と続けていくこと

こんにちは。BCです。 

株式投資をしていると何かとても面白いことが起こるんじゃないかって、

ワクワクする気持ちになることがあります。

ただ、今回はそんな気持ちになるのは間違っていますよというお話です。

 

そもそも株式投資ってなんのためにするの?

端的に、資産を増やすためですよね。お金に働いてもらうためという風に言われることもあります。

私、BCはこの株を買えるっていうのはとても面白いことだなと思っています。

だって、自分がお金を払うだけでその会社の稼ぎを分けてもらえる、

ほんの少しでもオーナーになれるんですから。

現在勤め人のBCはいくら仕事をしてもその会社の一部として、

いわば歯車としての役割を果たすことが限界ですが、

株式を買うことで、その会社のオーナーとなり利益を分けてもらえるなんてのは、

日常からは考えられないことやなって思うのです。

 

ただ、ことはそんなに単純ではなくて、株価ていうのが適正な値にあることなんてあまりないですし、

バーゲンセールだっていう時も確信がもてるなんてことはそうそうなくて、

自分の方針にしたがって購入するということがせいぜいですね。

 

天井で買ってしまったらどうしよう、とか底で売ってしまったらどうしようとか、

やっぱり考えてしまうものです。

 

まあでも、適正な価格で買えたとしてその会社が今後もビジネスを強固なままでい続けるなら、

その株を買った株主は報われるんじゃないかなと思います。

 

その報われるというのは、ただ株を買っただけで配当金がもらえたり、

値上がり益を享受できたりとするのですからやっぱり素晴らしいなと思います。

 

ワクワクするのは株式投資への妄想があるのではないか?

ただ、この株価っていうのが誰でもお金さえあればすぐに取引できる性質なものですから、

未来が読めない限りは安いか高いかなんてわからないですし、

将来の株価も予想できません。

 

ワクワクするという気持ちに、必要以上に株式投資への期待があるとすれば、

残念ながらそう簡単には行かないかということです。

 

具体的には10万円程度買ったところで人生が変わるほどの行動にはなりはしないということですね。

 

現在のインフレ目標が2%であることから、

そこから考えると年間4%程度増えるかどうかというところじゃないでしょうか。

 

それで人生変わるなんてことはほとんど場合ありえないですよね。

 

だから極めて現実的なリターンを考えてみて、それでも必要であるからするのが株式投資なんだと思います。

ただ、淡々と自分の方針にそう株式を購入するだけなのですから、

言ってみればコンビニでものを買う時くらいの感覚でできるようになれば自分的にはちょうどいい温度なんかなと考えます。

10倍株を探すこと自体は宝探しのようで楽しいけれどその分ストレスもある

私BCは今年から株式投資をはじめました。

証券会社で働いていたこともありますので株式のリスクは嫌という程わかっていました。

ですので、自分では取り組むことはないかなと考えていたのですが、

やることが増えすぎて自分自身の時間が全くなくなってしまってから見る目が変わりました。

ただ、リスクを取るならそれほどのリターンが必要じゃないかということで、

10倍にもなるであろう株式に投資することをまず考えました。

 

それで、このブログ立ち上げ当初に米国IPO株からはじめたのですが、

確かに値上がり益も2割程度すぐに上がっていたものの、

自分のイメージとは違ったのですね。

 

それは価格変動によるストレスです。

ただ、それも覚悟していたので、まあしょうがないかと考えていたのですが、

4ヶ月ほどホールドしてこの8月に売却すると5%程度したトータルで利益がなく、

しかも円高担っていたので、ほぼトントンという有様でした。

 

正直ストレスの方が大きかったので、やっぱり自分としては期待値が高すぎたんだなと反省しています。

 

同時に、インデックス投資なども進めていたのですが、これの方がよっぽど続けられる形だなと納得できました。

 

これからも個別株投資は続けていきますが、

やはり極めて現実的に株式投資を捉え直して進めていきたいなと思ったのです。

 

ワクワクよりも淡々と続けていくこと

そして自分なりに落ち着いてから出せた答えは、

株式投資ってのはワクワクよりも淡々とという方が合っているんだなということです。

 

もちろん投資家によって違うとは思うのですが、

自分としてはこの言葉の方がしっくりきました。

 

淡々としているからこそ続けられるのかなと思うのです。

そしてそもそも、ワクワクするほどの株式投資っていうのは何か自分が過大な期待をしてしまっていると考えるべきでしょう。

 

ヒットの延長がホームラン、なんてことはあるかと思いますが、

やはりセンター前ヒットを目指してバッティングはしていくものというような感覚で、

自分としてまず一歩だけ前に進めるような、

そうした株式投資を心がけていきたいなと思います。

 

皆さんの株式投資の心構えなんかも教えてもらいたいです。

それでは素晴らしい日々を。

 

【良いチームを作るには】心理的安全性を高める

こんにちは。BCです。

 

これまでで一番この仲間が良いなぁって思えたところはどんなところでしたか?

なかなかこういうのは正解のない問いだなと思います。

価値観も経験もそれぞれ異なる集団であればなおさらです。

 

ただ、BCとしてはこうであれば良いなぁと思うのがあります。

それは

自分らしく入れてそのチームに参加できて、かつ目標を達成していける、

そんなところかなと思います。

 

今日はそうしたチームの作り方について、考察してみたいと思います。

 

そもそもチームってなんのためにあるのか?

チームって、日本語で言えばなんですかね。

仲間、でも集団、でも良いのですが、

なんのためにその集まりがあるのかということです。

 

どのグループにも共通してあることは、

いづれの集まりも何か目的を持っているということでしょう。

 

  • 友人同士なら、一緒に楽しい時間を過ごす
  • 会社であれば、何かしら経理理念に即して持続的に発展できるようにする
  • 家族なら、一緒に時間を過ごす
  • プロのスポーツチームなら勝つこと
  • 趣味のサークルなら、その種目の技能を伸ばすや楽しむ

 

なんでも良いんですが、何かしらそのグループごとの目的があるはずです。

そして、その目的に即した成果を出すために活動していくことになりますよね。

 

  • どれだけ楽しい時間を過ごすか
  • その技能を伸ばすか
  • 勝利を獲得するか
  • 活動を持続させるか

 

こうしたものがあって、人が集まっていると定義します。

 

良いチームとは目的を達成できてかつ、自分らしく入れること

そこで良いチームってというのはなんでしょうか。

もちろんその目的を達成できることなんでしょうね。

 

でもここで考えたいのは、その目的となる成果を達成する時に個人がどうあるかということなんです。

つまり、個人にも焦点を当てて考えたいのです。

そうしますともう一つの条件が出てきました。

  • 目的となる成果を達成する
  • チームメンバーが自分らしくある

そのチームで自分らしくありながら成果を達成していけるということなんです。

 

たとえチームとしての目的を達成していけるとしても、

それぞれが自分らしく入れないのなら良いチームとは言えないのだと思います。

 

例えばですね、

目的だけ達成できたとしても各個人がもういやいや従っていた。

あるいは本当はやりたくないのだけど、チームのために我慢していた。

 

とかいう状況で良いチームだったとは言えないのだと思うのです。

だからこそ、そのチームの中で各個人も自分らしく入れるということが大切だと考えます。

 

この自分らしくある、というのはどういうことでしょうか。

それは以下のようなことではないでしょうか。

  • 自分の悩みを話せる
  • 愚痴が言える
  • 自分のキャラを出せる
  • 疲れた時に休める

つまりは無理をしないということです。

もちろん、野球をしようと思って集まっているのに野球をしないっていうのはおかしいことだと思います。

仕事をしようと思っているのに仕事をしないなんてのも変な話です。

 

でも野球をしようにも、なんかうまくいかなくどうしたら良いかわからないのに、

絶対勝つぞ!とかそんなことばかり言われたら辛いですよね。

もちろん、前向きにどういう投げ方をすれば良いかを研究していけるということも大事です。

このスイングどうしたら良いか、とかですね。

 

他にはブログ書くの辛い、とかですね。そんな毎日ネタないとか言えるということです。

 

野球ならそこで、肩が痛かったら、ちゃんと肩が痛いって言えることです。

家で親に怒られたらそれも共有できるように、そういう自分ごとを話し合えるチームっていうのが良いチームだと思います。

 

そういう自分を出せるっていう時に大事なのが、

心理的安全性が高いということとなります。

 

心理的安全性が高いチームを作ろう

こんな絵空事かもしれないのですが、そういうチームを会社で作ってみたいと思っています。

組織の目標ってのは、いわゆるタスクっていうのはあるわけなんですが、

その中でも個人の焦点を当てて、

これからどうしていきたいかとか、なんか悩んでることはないかとか、

話し合えるチームを作りたいわけです。

 

ただ、この心理的安全性が高いチームであれば良いのか、

と考えた時に、それだけが答えではないと思います。

 

もうそんなチーム面倒臭いだけで、もっと薄いつながりにしておきたいということもあるでしょう。

 

ただ、せっかく自分の時間をそこに使うとなった時に、

もちろん最小の時間で最高の成果を出せれば少ない時間で済むのですが、

その少ない時間をも個人が充実した時間となるようにしたいです。

 

こういうのが自分でもできるのかなと思って明日からまた取り組んでいこうと思っています。

それでは皆様も良い時間を。

今日も長文ご覧いただきありがとうございました。

【うつ病から回復するために実践したこと】トイレ掃除

こんにちは。BCです。

ネプチューン名倉さんがうつ病で休養ということがニュースが取り上げられていますね。

こんなに明るい人がなぜうつ病になるのか?

恵まれた境遇にいるのにうつ病になるなんて信じられない。

私はうつ病に関しては詳しくないのですが、

自分がうつ病であったことはありますし、その時にはとても仕事なんてできませんでした。

その頃からしたら今のBCの状況なんて、働きすぎで信じらんないというほどです。

そこで、回復したのは「トイレ掃除」をしてみたのですが、

その回復に至った経緯について記事にしたいと思います。

 そもそもうつ病ってなんなの?

これはBCは正確に記述できるわけではありませんので、詳しくはお調べいただいた方が良いように思います。

ただ、BCが診断を受けた時に医師から言われたことは、

  • 過去の出来事が辛い
  • 家の外に出るのも辛い
  • 何もする気が起きない
  • 夜寝られない
  • 朝起きられない、

とかそういうお話を問診でしていた結果、

「はい、うつ病ですね」

という感じであったかと記憶しています。

こんな簡単なものじゃあないのかもしれませんけれど。

それでお薬を処方されました。

なんという名前かは忘れてしまったのですが、

結局1回だけ服薬して、そのあとは飲まなくなりました。

 

このように、社会生活が送れないほどの精神状態で、過去を強く悔いているなど精神的に前向きじゃあいられない時に診断される疾患でした。

何をするのも辛く、しまいには過呼吸にもなったりして、

それはもうどうしようもないな、人生終わったなとか思っていました。

 

それが今は、
子供が3人いて、
オフィスの責任者も勤めて年収もそれなりにいただけて、
株式投資も始められたりしているなんてその頃からは信じられない未来にいることになります。

 

その当時には人生詰んだと本気で思っていたのですが、

今では、これからが楽しみであったり、
上司や顧客に何を言われても「アホか」くらいに思えるマインドが出来上がりました。

 

私の好きな海外ドラマでSUITSがありますが、

凄腕弁護士のハーヴィースペクターの台詞にもあります。

「もうどうにもできないと思ってからでも、対処法は144通りくらいある」

こんな感じで、追い詰められてからでも挽回する方法はいくらでもあるんだなぁと思いながら仕事ができるようになりました。

 

トイレ掃除を始めた

これはあくまで私のケースということで、一般的なものではありませんし、

治療はしっかりとかかりつけの医師の指示に従ってされるのが良いかと思います。

あくまでも自分自身の経験談としては、

番役に立ったのは「トイレ掃除」でした。

 

本当です。トイレ掃除をしていたらなんとなくうつ病はなくなっていきました。

最近できてないので、これからまたしていきたいですね。

 

うつ病を経験してからというものの、自分の精神状態については慎重に観察するようになりました。

仕事やプライベートで自分の器を超えるようなものを抱え込んでいるとやはり精神状態は少しどんよりするような、よくない方に行っているなと感じます。

 

こういう時はとにかく早めに休養をとるように、自分のペースに戻れるようにします。

ともかくも自分の状態が良いのが一番ですから。

 

お話が脱線しましたが、「トイレ掃除」に戻します。

トイレ掃除って良いんですよね、なんか。

仕事の本質があるみたいな感じで、誰も進んではやりたくないけれども、

すれば必ず喜んでもらえる、というようなものです。

 

自分でみてもトイレが綺麗になるととても嬉しい気持ちになります。

要るものはトイレットペーパーだけですので簡単です。

 

レベルが上の人は、自宅以外のトイレまで掃除しちゃうようですが、そこまで私は届きませんけども、自宅のトイレで十分です。

 

なんとなく、自分が好きになれるんですね。結構良いやつやんなんて思えるのです。

そうしているとちょっと明るくなる、というか自分を許せるようになるというか、

そういう一歩が踏めるんじゃないかななんて思います。

 

大切なのは自分のことを好きになること

そのことから結局ですね、うつ病の本質って自分が嫌になっているんですね。

なんでこんな人生になっちゃったんだろう、てなって自分を責めちゃうような感じです。

でも、正直言ってそんなにすごい人なんて世の中にもいないし、

もちろんいるんですけども、あくまでも人間の範囲内で神様とかにはなれないわけです。

 

失敗とかたくさんしちゃいます、私がうつ病になったきっかけも、なんだかその時には大きな失敗だなと思ったことがきっかけでした。

 

そしてかつ、自分を責めるというか、ストイックに考える部分も合わせて自分を暗くさせていたように思います。

 

そんな時に、トイレ掃除なんてしてみると案外自分のこと良いやつだななんて思えます。

明るい人ってすべからく自分のことが好きですよね。許せているというか。

 

そうしたことを素直に思えるきっかけに「トイレ掃除」ってオススメですということでした。

確かその当時は、小林正観さんのご本をたくさん読ませてもらっていたように思います。

リンクは貼り方がわかりませんし、読まなくともできることなんで特に必要ないですね。

なんでも良いので、自分のことを好きになれるような何かをしてみると、

うつ病っていつの間にかいなくなるものかなと自分では思っています。

 

それでは長文ありがとうございました。

少しでも何かのお役にたちましたら幸いです。

 

素晴らしい日々を。

【やりたいことを見つけるための質問】今日が人生最後の日だとしたら何をしますか?

こんにちは。BCです。

 

昨日は久しぶりに株を買えました。

JNJですが、特に説明するまでもない企業ですね。

 

さて、株式投資の方が特にお話することはなくですね、

今日が人生最後の日だとしたら何をするか、というテーマで書いてみたいです。

 

結論を言えば、

「日々の暮らしの心を込める」

ということになりますが、なぜそうなるのかについてお話させてください。

そもそも今日が人生最後の日だとしたら、とはどういう意味か?

これは言葉の通りですね。

簡潔に言えば、余命1日ということです。

もっとイメージを明確にしたければ、こんな設定をしてみてもいいでしょう。

 

  1. 検査結果を聞くために病院にいく
  2. 診察室で医師から検査結果を聞く
  3. 「私はあと何日生きることができますか?」と質問する
  4. 「残り1日です」と神妙に言われる
  5. 「現代の医学ではもうどうしようもできません」と言われた

 

こんな感じでしょうか。

もはやなんの手立てもなく、ただその事実を受け入れるしかないわけです。

 

そんな時に自分ってどう思うんでしょうか。

 

その事実は受け入れがたいものではあるけれども、目の前で時間はただ過ぎ去っていく。

ただただ、怯えてしまって何も考えられず、無為に時間を過ごすのであればこの1日を使って何かしてみよう。

 

ここまでの状態に持ってこれた時に、最初の質問に戻るわけですね。

「今日が人生最後の日だとしたら何をするだろうか?」

 

なぜ明日死ぬといった質問をするのか

そんなことわざわざ考えなくても良いじゃないかとも思います。

私BCは高校生になった時によくそんなことを考えていました。

そして誰にも相談できず、一人布団に包まって怯えていたものです。

 

自分がいなくなってしまう、消滅してしまうことを想像すると怖くて仕方がなかったのですね。

 

でも、事実として誰しもが永遠に生きることはできないのです。

そして、その瞬間はいつ訪れるかわからないわけです。

であれば、この厳粛な事実に対して自分はどう対峙していくのか、があっても良いのではないでしょうか。

 

いや、それでも目を背けたい、となったのが高校生の時のことでした。

でも、今は一人の親となって、

いつか子供がそういう質問をしてきてくれた時に愛のある答えを返したいなと思っています。

 

そして、その質問から「生きる意味」を引き出してあげたいのです。

なぜ人はみんな死ぬのにこんなに生を燃やしているのか。

笑って楽しんで、傷ついて悲しんで、目標に向かって進んでいくのか。

 

そうした活力を引き出せる可能性のある質問だと思います。

たとえ人生最後の日が明日になったとしても、何も変わらずに毎日を大切に生きていきたいのです。

 

元上司が急遽ガンになって入院した時にみたもの

当時50代ですかね、私の元上司が急遽会社に出社されなくなりました。

そしてお話が伝わってきた時には、ガンで治療のために入院しているというものでした。

とてもよくしていただいたので、お見舞いにも行かしていただきました。

その時に印象的だったのは、ガンだと判明しても何も変わらずいつも通りの表情で迎えてくれたことです。

 

そしてその時にいってくれた言葉で印象的だったのは、

「俺は何も変わらんよ」

という言葉でした。

 

実際に何も変わっていらっしゃらないんです。ここが会社ではなく病院であること以外は。

何も深刻になっていないのです。

 

その後、退院され仕事にも復帰されました。

ガン治療の副作用のために髪の毛が抜け落ちてしまったためにニット帽を被られていました。

体力的にはしんどいだろうなとみて取れたのですが、それでも特段変わった雰囲気はありませんでした。

さらには、今度転勤してくる奴はハゲてるらしいぞ、とかいつもの表情でいってました。

 

そして、それから数年程度の時間がすぎた時に、再入院となったのちに亡くなられました。

 

そのころの私が驚いていたのは、本当にガンとなっても何も変わらずにいらっしゃったこと、目の前の仕事を淡々とこなされていたこと。

もちろん、治療中の間はいつもの違いかなりお疲れであったこととは思うのです。

それでも周囲の人にそういうことは一切出されずに、楽しげに仕事をされているように見えました。

 

本当に何も変わらずに過ごされていたのです。

 

私にそんなことができるだろうかと自問していました。

まず会社にいくことができなかったかもしれません。

それは、哀れんでみられるように気がしてそれが辛いと感じるだろうからです。

 

そんな状態であっても周りの目を気にしてしまうだろうなと思うのです。

 

でも、きっと自分がなんなのかということがしっかりとわかっていれば、

自分がしっかりと確立していればいつもと変わらずにいられるんだろうなと思います。

そして、そういう自分を作り上げていきたいです。

だからこそこの質問を自分で問い続けたいと思います。

そして、まるでそうであるかのように日々を送りたいです。

 

小さなことを大きな愛を持って行う

私たちは決して大きなことはできないのです。

ただ、小さなことを大きな愛で持って行うことはできます。

マザーテレサさんが言われたそうですね。

 

この言葉はこうした時に力を貸してくれるかもしれません。

 

まず空を見上げてみる、

この空の青さが愛しく思える。

決して忘れないでいようと心に誓う。

 

そんなことから始めてみても良いのではないでしょうか。

普段気にも留めないことが少しずつ色味を帯びてくるでしょう。

 

身の回りのものを見渡してもいいのかもしれません。

机、💻、椅子、扉、本棚、テレビ、

何もかもがこれまでの人たちが作り上げてきたものですよね、

そして、どこかで誰かがこれを作り上げて今自分のところに届けられています。

 

こういうのってきっといろんな奇跡、いわば先人の努力の結晶なわけです。

ご飯を食べるときに、

味わいがより出てくるのです。

 

つまり、日々の暮らしからより幸せを感じられるようになるのではないかと思います。

何もすごいことをする必要なんてないのです。

そして、何よりこの毎日を楽しくいきていけば良いのではないでしょうか。

そうしているうちに、自分のやりたいことっていうのがなんなのか、

見つけられるかなと感じています。

 

今日のお話は「明日死ぬかもよ」という本を拝見して思いついたものです。

まだリンクの付け方なんかがわからないのでご紹介のみになります。

 

皆さんの日々がより良いのものとなりますように。

 

 

 

 

【父親への親孝行】バイクの中型免許を取得して親子ツーリングを実現させたい

こんにちは。BCです。

今日のテーマは親孝行です。

皆さん親孝行されてますでしょうか?

クソ真面目なテーマですみません。

 

私は、、全然できていないのですね。

どうでしょう。素直に感謝の言葉を口にしたことも、まあほっとんどありません。

 

でも、何故か親孝行をしたくなってきたのです。

せめて自分の親くらい幸せになってもらいたいのです。

 

そこで、中型免許をとってバイクのツーリングをしようという目標を掲げることにしました。

その経緯について記事にさせてください。

そもそも親孝行ってなんのためにするのか

およそ大事だって言われることは、ほとんどできていないから存在しているのだと思います。

親孝行という言葉はその典型で、ほとんどの人ができてないのではないでしょうか。

少なくとも私、BCは全くダメですね。

そう思う理由を事実ベースで以下に記します。

  • ほとんど会いに行かない
  • プレゼントも自分ではしない
  • 育ててくれてありがとうと言ったことがない
  • 自分のできないことを親のせいにしている
  • いまだに親が話しかけてくれてもリアクションが薄い

もはや、痛々しいくらいですが、
かつこんなものじゃあないのですが、もうキリがないのでこの辺りで止めておきます。

 

なんですかね、38歳にしてようやく親孝行をしたいと思うようになってはいるのですが、
全く現実でしている行動はその気持ちとは、もう随分と乖離しているわけです。

 

これはひとえに「幼児性」がなくなっていないことを意味しています。

幼児性とはつまり、自分以外の人に対しての甘えですね。

 

たとえ親に対してでも甘えているということは「幼児性」が残っているということです。

 

これをですね、もういい加減卒業したいのです。

 

「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もあります。

この言葉が何故あるのか、ということを考えますと、
親しい人にはつい甘えてしまう、自分の幼児性が出てきてしまうということを表しているのではないかと考えるのです。

 

私、BCが反省するのは、
日常的には妻や子供に対してですね、なんとも沸点が低くなっているかということです。

 

自分のコントロールできる人に対して偉そうに、自己中心的になってしまうのも「幼児性」の表れですよね。

 

繰り返しになりますが、もう卒業したい。

 

そんな気持ちが沸き起こってきたのはBCは子育てに関わるようになってからです。

本当はこのきっかけすら必要なかったのでしょうが、わかろうとしなかったということでもあります。

 

皆さんは自分の意識は何歳くらいからありますか?

 

私ははっきりと前後関係も含め覚えているのは幼稚園の年中さんくらいです。
つまり5歳前後からですね。

それまでの時間はほぼ何も覚えていません。

 

 

そうした子供を授かってから今は5歳までの子が3人います。

衝撃を受けるのは、この期間こそが親がもっとも手を掛ける時になるのですが、

本当に何もできないのですね。

泣くことしかできない。

 

泣いてしか何かを伝えることができないのです。

しかも、一緒にいる時間が長ければ泣いて何をして欲しいのかもわかるものですが、

一緒にいる時間が少ないと何に泣いているのかすら理解してあげられないのです。

 

だからもう、色々推測して、相談してどうしたらいいか考えながら、

あやしたり、歌ったり、気分転換に外に出たり、

あらゆることをするわけですね。

 

そんな日々を過ごしているときに、この時間を何も覚えていないなんて!と衝撃を受けるわけです。

 

知っていましたか?一人じゃ何もできなかった日々が、5年間も続いていたことを。

寝る前に、入眠することが怖くて泣いていた日々があったことを。

 

お金だって必要だから、稼いでこなきゃ育てらんないのです。

 

まあとにかく忘れているわけですね。そして私は子供を育てているときにようやく理解することができました。

 

自分が小さい時に親が何をしてくれていたかがわかってきたのです。

 

そうして少しずつ、親への感謝が湧いてきて、なんとかお返しを少しでもできないかとじわじわ思うようになってきたのです。

 

親の趣味に付き合ってみてはどうか

どんなプレゼントをあげても親は喜んでくれます。

だから誕生日でもなんでもプレゼントを送るのはとても楽しいことになりました。

そして、自分自身がしっかりと生きることです。

親孝行はできなくとも、親不孝はしないことです。

 

それでも親の期待通りに生きることはできません。

これは自分の人生ですから、自分が納得するように生きるのです。

 

その上で、何かできることはないかなと、

生きてて良かったと思ってくれることはないかなと思った時に、

親の趣味を一緒にするのはどうかと考えたわけですね。

 

そして、たまたま会社の先輩と話していた時に、

その先輩は酔っ払って記憶がないのですが、

親の趣味がバイクであることを伝えると、

それは絶対一緒にツーリングをしてあげたほうがいい!と言ってくれたのです。

絶対喜ぶからと。

 

ただ、私はバイクは原付しか乗れません。免許ないですから。

その原付ですら、学生時代に車とぶつかって事故ってしまったので乗るのをやめていました。

 

今は子供3人の父ですので、怪我なんてしてはいけませんから、バイクには乗りたくないのです。

 

でもですね、これで父親が喜ぶのならやってもいいのかもなと少しずつ思うようになりました。

 

だって、免許は取ればいいし、ツーリングだけであれば事故をせず安全に運転していけば良いのかもと思ったのです。

 

父親はバイクが趣味というか生きがいです。

高齢者の免許返納のニュースも出ていますが、

もう時期に返納しなくてはなりません。

 

それは人生で大きなものを失うことにも繋がります。

だからこそ、記念にツーリングにいくのだと決めたのです。

 

まずはバイクの中型免許を取ろう

なんの話かわかりませんが、とりあえずイマココなのです。

中型の免許を取りに行こうと思っています。

ただ、会社員ですので合宿にいくこともスクールにいくことも厳しいです。

 

そこで調べてみると、技能だけのテストで一発で取得できるという方法もあることがわかりました。

それならやってみるかと、挑戦することにしました。

 

これから運転の練習をしてなんとか今年のうちに中型の免許を取得しようと思います。

 

【金融リテラシー】元証券マンがかんぽ生命の事件について考える

こんにちは。BCです。

最近かんぽ生命のニュースが多く報道されていて、なんて非道いことをするんだと思われていますよね。

これは、古い金融業界の悪い部分が出ていて、とても今では考えられないような仕事をしていたのですが、
なぜこうした事件が怒ったのかについて考察したいと思います。

 

手数料収益に頼る古き証券ビジネスの限界

BCが過去にお世話になった証券会社もですが、

日本の証券業界では手数料収益により利益を稼ぐビジネスが中心になっていました。

 

顧客の資金の流れを考えますと以下の2通りの方法が考えられます。

  1. 現金からAという金融商品を購入する
  2. Aという金融商品からBという金融商品に移す

1は仕事としてはとても大切なものなのです。

何故ならば1ができればそこから2に移るのは簡単だからです。

誰だって、最初にものを買うのにはハードルがあってもその商品から乗り換えをするのは簡単なものです。

 

また一方で金融商品というのは通常の製品とは違って、
中身というのは株や債券と言った証券の組み合わせたにいろんな権利を組み合わせたものです。

 

それだけであればリスクを分散したり、リターンの範囲を幅広くすることができる、
投資信託のようなものができるのですが、
そこで手数料を主に二つ設定しているのです。

  1. 購入時の手数料
  2. 保有時の手数料

それで日本の証券ビジネスはこの2つの手数料を稼ぐことで成り立っていたわけです。

 

さて、こうした時に仕事をする側、販売員や営業員が少しでも効率よく稼ぐことを考えるとどうなるのでしょうか。

 

それは、購入時の手数料が高いものに頻繁に商品の乗り換えをすることです。

さてその時に対象はどんな顧客になるのでしょうか。

この答えは資産家ですね。

お金があればこそ金融商品が買えるのですからこれは当たり前のことです。

 

そしてもう一つには、手数料というのは購入金額あたりの%で設定されています。

実際に手数料の稼げる額は

1億円の1%は100万円で、

また100万円の1%は1万円です。

 

100万円の手数料を稼ぐには、1億円の取引ができれば1回で済むものを、
100万円の取引の場合なら100回する必要があります。

 

こうして、額の小さな取引しかできない営業員、販売員はとにかく頻繁に顧客の金融商品の乗り換えを推奨していくこととなるのです。

 

高齢者の頻繁な回転売買は金融商品取引法で規制されている

さて、こうした回転売買を頻繁に行うのに一番手っ取り早いのはどういう顧客かというと、

こういう言い方はよくないのですが金融リテラシーの低い方が対象になります。

 

普通、お得意様にはいい商品を提供するのがビジネスの常識ですよね。
だからこそ顧客は営業員、販売員の言葉を信頼して取引をするのですから。

 

でもここで金融商品の場合はその商品の特性と、手数料収益を狙っていることにより、
ある意味異常な自体となるのです。

 

それは不要な金融商品を得意客に売りつけてしまうことですね。

特に金融リテラシーはご高齢な方ほど低いのが現実としてあります。

何故か知らないのですが、高齢の方は金融についての理解が低かったりします。

 

だから、高齢者が標的にされる、となるのですから流石にそうした流れは以前から問題になっていまして証券業界では随分と前から金融商品取引法により規制されています。

 

それが何故かかんぽ生命では許されていたんですね。

これはそれだけかんぽ生命は金融商品の販売に置いて、遅れている会社であることを示しています。

また、マイナス金利もあり、国債での運用で利益をあげることもできないために、
収益源が限られてしまっていることもあるでしょう。

 

金融リテラシーを高めて自分に必要な金融商品を理解しよう

本来であれば金融サービスの業界が金融リテラシーを顧客に教育する、
もしくは真に有用な金融サービスを提供することが当たり前なのです。

 

でも現実にはそうなっていません。

残念ながら、金融リテラシーが高い方は少なく、
金融ビジネスを展開する企業も目先の収益を追いかけたり、
顧客に本当に必要な金融商品を提供することができずにいます。

 

BCの父親も証券会社との付き合いがありますが、提案してくる商品は残念なものばかりです。無駄に手数料が高かったり、そもそも投資方針に合わないものを進めてきます。

 

そのため、個々人の金融リテラシーを高めていくことでしか、自分の身を守ることはできません。それはせっかくの資産をみすみす企業側に搾取されてしまうということです。

 

私BCは元証券会社の社員でありますので、ぜひ証券会社が本当に必要な金融サービスを顧客に提供できるようになる未来を心から願っていますが。

 

さて、日本は成熟国となり金融サービスとの付き合いが必要であることは変わりません。

これから、かんぽ生命のような事件がなくなり、必要な金融サービスが必要な人に提要されるようになりますように。

それでは今日はありがとうございました。

皆さんの日々が素晴らしいものとなりますように。